下関市長選挙が始まった
投票用紙が届いた。
町のあちこちに看板も設置された。
…けど、気になるのが、「看板が無駄に大きい」こと。
候補者が少ないのにこんなに大きな看板必要⁉って。
下関という土地は超保守で、常に自民党一強。
選挙においてはどんでん返しなど微塵も起こらない。
ひと昔前、小泉純一郎元首相が人気絶頂の時でさえ、真っ先に「当確」が出たのが安倍晋三だったくらい。(選挙の必要性がないくらいの圧勝)
もはや国会議員選挙では、どの他政党も「お金の無駄」とばかりに全く対抗馬を立てない。(全国の各選挙区で必ず候補者を立てる、当落に全く興味がなさそうな某党のみはご丁寧に毎都度参戦してくるが、結果が変わることはない)
とにかく「組織票」で当落が決まる。
この度の市長選でも、現職市長の再選でまぁ間違いない状態で、現職市議が立候補するがそれだけ。
むしろ現職市議を辞職しての立候補だから、その市議の椅子をめぐっての補欠選挙があり、そこへ更に利権を期待する組織の票を持った候補者が投入されるのだ。
以前の投稿で先述したが、この度の市長選のために私の勤務先に現職市長が訪問してきた。
その後間もなく、わが社の社長自らがその現職市長の後援会への参加名簿に記名するように社員一人一人のデスクを回ってきた。
実際にだれに投票するかに効力を持つものでないにしろ、こういうのってはっきり言って大嫌い(# ゚Д゚)
しかも更にその数日後、社長自ら、とある市議補欠選挙に立つ人の後援会への参加名簿に記名するように社員の席を回っていた(私はちょうどお客様の電話応対中で難を逃れたが)。
マジこういうの嫌だ(# ゚Д゚)
私自身、「どうせ何も変わらない」という意識を持ってしまっているし、事実変わったこともなかった。
だからと言って選挙に行かなかったり、自分の権利を放棄しようと思ったことはない。
何の意味もなさないことはわかっていながらも、賛同できる候補者がいなければ「白紙投票」をしに投票所に足を運び、職場やその他の団体で後援会への参加を求められても、本当に賛同できる場合を除いては基本拒否の姿勢を示す。
政治や政治家が何をしてくれるのか正直わからない。
この度のコロナ禍においても、国民に我慢を強いるような政策をとりながら、自分たちは特別とばかりに会食を楽しむ議員と、ばれたら離党や役職を辞する(議員辞職ではなく)議員など。
現状をわかってないのか、自分たちは特別と思ってるのか、ばれないと思ってるのか。
いずれにしてもバカすぎる。
もちろん本気で日本や世界の未来を思っての政策を立て、実行しようと奮闘している政治家も存在するのだろうが、こうバカな政治家が悪目立ちするのと、自分たちの理のために世の中の改変を求めない高齢者の投票で従来通りの選挙結果になることで、変革を求める若い世代の参加が遠のいていくのが現状となっていると思う。
もはや政治の力では幸福度は上げらない。
となると、これからの世代の人間は現代の世の中をどう生き抜いていくのか?
「助け合える仲間」を増やすしかない。
たとえば今、どこかで災害が起きた場合、真っ先に動くであろうは「個人のボランティア」。
救援物資を届けるにしても、個人は必要なものが何なのか、当事者の声をヒアリングして適切なものを届けることができる。
それに対し、消防や自衛隊などの組織は上からの指示がないと動けない「瞬発力」に欠ける。
救援物資を用意しても規格的なもののみで、時に必要量を上回ったり不要だったりするものも少なくない(場所をとる)し、個別のニーズや心情的な面で本当に必要とされるものが届けられにくい。
時には政治家の中には「来てやったぞ」然で周りに気を遣わせながらアホ面下げて「(全く役に立たない)視察」に来る者もいる。
そんなのを当てにしてたら、私達の幸福度は上がる由もない。
お互いが必要なときに適切に助け合うことのできるコミュニティーづくり。
ただ一方的にサービスを受けたり提供するだけではなく、時に何か助けを必要とし、サービスを受けることもありつつ、時には自分が誰かの「必要」を満たす存在になることで「お互い様」で「助け合い」が可能になり、社会的存在価値も高まっていく仕組みづくり。
3NASびは、こうしたコミュニティの当事者でありながら、それぞれをつなぐ架け橋のような存在になれたらと思う。
コミュニティの力で、日々の生活の幸福度をUPしていきたい⤴