助け合うということ

久しぶりに実家に行った。
現在は空き家となっていて、そこには容積率180%レベルで残置物が…(@_@;)。
相続当初は張り切って処理を始めたのだけれど、まったくもってゴールが見えない状況に、早々に心が折れてしまい、なかなか進められずにいた。
とはいえ、放置しておくわけにもいかず、子ども達にも手伝ってもらって進めることに。
どれもこれも不要なものばかりなので、とにかく片っ端からごみ袋に詰めていく(もちろん最低限の分別はして)。
部屋をのぞけば物ものモノ。
扉を開けば物ものモノ。
引き出しを開ければ物ものモノ。
一度出すと元に戻せないほどギュウギュウに詰め込まれている状態で、ものに溢れていて、ごみ袋がいくらあっても足りない状況に(@_@;)。
更に、袋に入るものだけならまだしも、そうでないもの(家具・家電など)も山ほどあるから、手に負えない。
使うもの使わないもの使えないもの何のためにあるかわからないもの…(最低限の日々の生活ごみ以外)なにも捨てられずにウン十年溜め込まれてる状態。
作業開始から約2時間。
詰め込んだごみの量は
・燃やせるごみ(大袋)16袋
・燃やせないごみ13袋
・資源ごみ(プラや瓶缶など)4袋
・カラーボックス6個
・小型家電・健康器具など10個以上
その他、もろもろ…。
これで全体の2%程度か…?
体力も時間もまだまだあったけれど…心が折れた(T_T)。

作業を終え(というかギブアップして)、頑張ってくれた子ども達へのご褒美(?)でシーモールへ。
本屋さんに行きたいとのことで。

シーモールで声をかけられた。

難民支援のための寄付の呼びかけなのだが…お断りさせていただいた。
というのも、この寄付が「サブスク型」だからだ。毎月(毎年)一定額コンスタントに寄付するシステム。

私自身、寄付という形で困っている人を支援することに対しては賛成で、積極的に参加するようにしている(と言っても、大した金額ではない「募金」レベル)けれど、それが最優先事項とは思っていない。
あくまで自分と自分の家族が困らない生活を確保したうえで、「使い道を選べる時間やお金など」を使う選択肢であるということ。
自分と自分の家族の生活を二の次にして、無理してまですることではないと思っている。
(この度の能登半島地震では、「家族の外食を我慢して、その分を募金する」くらいの無理はしたけど)

そのうえで、サブスク型の寄付は非常に都合がよろしくない。
というのも、家計にも浮き沈みがある(収入の上下・支出の上下など)なかで、常に一定額の固定支出があるのは非常に厄介(-_-メ)。
(冠婚葬祭などで)出費がかさんで家計が厳しい時も、臨時収入があったりして余裕がある時も、常に…。
しかも支援先が選べないのも難で。
通常であれば、世界の難民問題に取り組みたいと思っていても、今回のように自国で飛んでもない災害が起こったとなればそちらをの支援を優先したくなるのは至極当然であるにもかかわらず、そのあたりの対応ができないはチョット…。

あ、シーモールにこんなものも。

フードバンクポスト。
生活困窮者などへの食料品での支援だ。
ちょっと前まではなかったけれど(気づかなかっただけ?)。

支援の輪が広がっていくのはとてもいいことだと思う。
ただ、そこに無理があってはいけないとも思う。
あくまで、自分と自分の家族の生活やしあわせを確保したうえで、余剰があるならそれを「誰かを助けること」に使うべきだと、私は思っている。
なぜなら、「誰かを助ける」ということが「持続可能」でなくてはならないからだ。

元自衛官芸人やす子さんが、「震災時に一般人にできる事」についての質問に、「日常を送れる方はいつも通り日常を楽しむこと!あとは募金とかでしょうか…」「自家用車で支援をしに行くと道路が込み、緊急車両の邪魔で助かる命も助からなくなるので、今皆がいる場所で精一杯日常を生きるのが大切」と。
まさにその通りだと思う。

まぁ、やす子さん…1回も「面白い」と思ったことないし、なんでこんなにテレビとかに出てるか全然理解できないんだけどね(-_-;)。